「真逆の糸」における俳優・野崎弁当(後編)
真逆の糸で毎回地蔵になっちゃう茶推しが、「アイドル野崎弁当」に垣間見える「俳優野崎弁当」について偏愛気味に感想と解釈をつづる記事。後編はライブについて。
MVについて書いた前編はこちら。
ライブでの表現~触らないで
4:02からの逆再生のような音(背後からの手刀とその後始末のシーン、と言った方が伝わりやすいかもしれない)の後の、「一糸纏わぬ心で」から「触らないで」までの間――つまり、歌割がない間の野崎さん。
この恐ろしさに気づいたのは、TT6ツアーのセミファイナル、京都公演でのことだった。
真逆の糸の野崎さんのパフォーマンスには余計な余白がない。 #あとで推敲する
— やお@ヤオコー (@80mn0v0) 2019年12月6日
終盤の、立ち位置が下手で、わりと長いこと歌割のないあそこのパフォーマンスについて。
— やお@ヤオコー (@80mn0v0) 2019年12月6日
まずは、ダンスショットで全体像を。
3:59~ MVでは数人のソロカットで進行していた部分が、視覚的には歌割りのない二人(あおい・二番煎じ)を中心に据えた構成であることがわかる。
一方で、他の七人は二人を取り囲むように立っている。ここで最初に「一糸纏わぬ心で」と、冒頭の台詞のリフレインを歌うのが野崎さん。その後、俯きがちにゆっくりと下手に移動する。
少し間をおいて、センター二番煎じを八人が囲むフォーメーションになると、「触らないで」と歌い始め、九人それぞれの矛盾をはらんだ煩悶の表現が始まる。
これをふまえて、今度はライブ映像を。
ダンスショットはフォーメーションこそわかりやすいものの、各メンバーの細かい動きや表情の見やすさの点では、やはりライブ映像に軍配が上がる。
4:00~ 「一糸纏わぬ心で」のパートで、何を見ているのだろうか空を見上げて、下手へ歩き出す。
4:23~ そして、今にも崩れそうによろめきながらセンターに向き直って、「触らないで」と歌い始めるまでの間。
これだ。無駄な余白や、歌割り待ちの間がない。たとえば大根役者に芝居をさせると、それは芝居ではなく「単に台詞を読み上げるだけ」になりがちで、自分が発するべき台詞と台詞の合間には芝居ができていない、ということがままある。*1が、真逆の糸における野崎弁当は、そうではない。
「信じたのに」「許したのに」と他のメンバーの歌割りが続く間の、悲痛な面持ちや、やや息が上がっている様子。この芝居があることで、その後の「触らないで」の説得力が段違いに上がっているのだ。これを俳優と、役者と、そう呼ばずしてなんと呼ぼうか。
曲の終盤近く(5:23~)下手からよろよろ歩くところなど、こんな人を駅のホームで見かけたら、この人もしかして死んじゃうつもりなんじゃないか……?と思ってしまいそうだ。
こんなの見ちゃって、キンブレ振る余裕なんかもうどこにもない。私は地蔵になるしかなかった。惜しむらくは、このおよそ90秒間の野崎さんが画角から外れることなく映っているライブ映像がまだないこと。
TT6以降の映像(ツアー、ファイナル豊洲、カウコン)が見たい。下手からぼうっと歩いていく表情や仕草の細やかさは、ツアーを通して凄みが増しているのだから。
追記(撮影可能ライブの映像)
ありがたいことに撮可ライブでの映像がありました!しかも推しカメラ!
3:58~が、特にこの記事で述べた部分です。ありがたく見よう。
*1:ステージ上の野崎さんについては、同様の感想を抱いたことが以前にもあった。舞台「殺してもいい命」の取調室のシーンだ。
(以下、本筋のネタバレなし)取り調べる側と、取り調べられる側。二人のやり取りが中心の場面なので、どちらかが言葉を発している時には自然とそちらの人物に目が行くのだけど、野崎弁当演じる永井が、雪平のしゃべる間も細かい仕草まで永井で感嘆したのだ。https://twitter.com/80mn0v0/status/1145284279267549184