わたしはわたしを憶えておかむ

二年前の八月、推しが初めて誕生日を明かした。
日付を明言せずに何年も「八月生まれ」で通してきた推しがそれを公開したのは、例年通りに開催された生誕祭でのことだった。

キャパ200人ほどの馴染みのイベント会場での生誕祭の終盤、彼は「発表したいことがあって」と切り出した。
その瞬間会場が静かにざわついたことも、自分が思わず隣席の友人の手を握ったことも、はっきり覚えている。
一体何の告知かと緊張する会場の様子に「そんなに身構えるような内容じゃないんだよ」と笑いながら、自分の本当の誕生日は明日なんだ、と彼は言った。
夜の部が終わってからちゃんとブログを更新するから、今言ったことはそれまで内緒にしておいてね、とも。
その場では、嬉しさよりも驚きが勝ってしまった。
今までは便宜上一か月を丸々「お誕生月」として扱ってきたけど、来年からは誕生日当日に「今日は推しの誕生日」って思って過ごせるようになるんだ。
当日までのカウントダウンもできちゃうんだ。
そういうことは、後からだんだんと思い浮かんだ。

 

一年前の八月、推しが自宅から配信するツイキャスを見ながら、推しの誕生日当日を迎えた。
推しの所属する事務所では、コロナ禍が始まってから無観客の配信ライブこそ何度も行われていたものの、2020年いっぱいは生誕祭は一切開催されないことが既に決まっていた。
外出自粛とかステイホームとか、そんな標語をそこかしこで目にする日々で、日用の買い物以外の外出は憚られるような空気の中、どこかびくびくしながら地元駅のケーキ屋へ行き、桃のケーキを買い求めた。
その日の夜には、親しい友人とそれぞれに推しの好物やケーキを用意して、通話しながらリモート生誕祭を行った。
ほんの数か月前まで推しの生誕祭といえば現場で祝うのが当たり前だったから、自宅でいかに祝祭感を出すかとか、チェキやアクスタを添えてきれいな(あるいはユニークな)お祝い写真を撮るかとか、そういうことには今ひとつ不慣れな頃だった。

 

今年の八月、配信ありの有観客生誕祭は、推し自身の体調不良によって延期になった。
はっきり言って、発熱とか喉の痛みとかとにかく身体の不調に対しては、嫌な予感や恐れがつきまとって離れない。
身体の不調に怯える生活、それそのものには幾分慣れたが、この怯えにはまだ慣れない。
昔は気にも留めなかったようなほんのちょっとの不調さえ、その度に精神を削り取っていくようだ。
もっとも、この怯えにまで慣れ切ってしまったらいよいよお終いじゃないかとも思うけど。
一年間で変化したこともある。工夫や対策を重ねてちょっとはマシになったこともないではない。
それでも「去年の今頃はケーキを買いに行くようなことさえ憚られたんだよね」なんて話を、思い出して話すことはできても、懐かしいねとはまだとても言えそうにない。
生活することに、そして生き延びることに、大変な気概がまだ必要そうだ。

 

この文章に特にオチはないし、終段で何か希望を示すこともできない。
手持ち無沙汰な夏の有給休暇の一日、時の経過で記憶が薄れていく前に、自分の三年分の八月のことを記しておきたいと思った。

 陽に透きて 今年も咲ける 立葵 わたしはわたしを 憶えておかむ ――河野裕子