やさしい涙のぬぐい方

最後にライブに行ってから、春が過ぎ、夏が過ぎ、秋になった。7か月の時が経っていた。 
肉体を伴った(いわゆる有観客の)ライブを思い描くとき、忘れることのできない経験がある。

 

 

もともとライブには単身で行く人間だった。ネット上でも特段オタク友達みたいなものは作らなかった。
現場へ行くことにしろ周辺のオタク活動にしろ、自分にとっては「仕事や家庭を離れて一人で楽しむもの」だったからだ。美術館へ行くときの感覚と、少し似ているかもしれない。
見たいものを見られれば満足で、とにかく趣味を起点に「誰かとつながる」という発想がなかったのだ。
地元であれ遠征であれ、待機列で読むための本だけは忘れないようにして、私は一人で現場へ通った。


そんな私でも、二年三年とオタクをやっていると多少は顔の分かる知り合いができた。
Twitterで先に知り合ってから現場で初めて顔を合わせるという仲の深め方にも、だんだん慣れた。そういえばTwitterで知り合った人とオフ会で会う、なんてことも別界隈で昔はしていたっけ。

 

連番というものにもだんだん慣れた。
それでもある時期まで、連番というのはただ文字通りに「チケット番号が連続しているだけ」「知り合いと一緒に入るだけ」だと捉えていた。連番相手が誰であろうと、ライブが始まってしまえば大差ないことだと。


そもそも、ライブの最中に会場で成立している関係は「そちら(ステージ)」と「こちら(客)」の関係、あるいは「あなた(ステージ)」と「私(客)」の関係であって、「こちら同士」だの「私たち」だの、たとえ連番で入っていようとも親しい仲のオタクが隣にいようとも、そんなものは大して重要じゃない。そう思っていたのである。
そりゃ現場によっては見知らぬ客同士でも肩を組んでシンガロングするようなこともあるけど、それにしたって、その時そこにあるのは「私たちという総体」なのであって、私たち個々人の間には何もないのだと。

 

今もだいたいの考えは変わっていないけれど、時に「こちら同士」「私たち」の持つ意味は非常に大きいということを、ごく個人的な経験を通して、今の私は身をもって知っている。 
何か特別なきっかけがあったわけではない。
ただ、連番の経験を重ねるうちに、わかってきたのだ。推しに関する発表(ソロ写真集発売とか誕生日をオープンにするとか)があるときに、隣に親しい同担がいると心強いらしいこと。 OPAと本編開演の間のちょっとした時間も気の合う人と過ごすと楽しいこと。
もう少し甘ったるいことを言うのなら、連れから少しよりかかって体重を預けられるときのくすぐったさを知った。それから、転換の時に視界の端で見る連れの横顔は、普段とは少し違う顔立ちに見えるということも。

 

そうして、親しい人としばしば連番するようになった頃の、ある忘れられないライブ。
ライブ中に瞳で受け止められなくなった涙が、私の頬をつたって顎にこぼれたとき、私のものではない指が頬に触れた。
驚いて隣を見ると、薄暗いフロアだからそこまではっきり顔が見えるわけではなかったけど、それでも連番相手の彼女がやさしい笑みを浮かべているのはわかった。
私たちの間にその時、言葉は何もなかったけど、それでじゅうぶんだった。
世界にこんなにもやさしい涙のぬぐい方のあることを、その時初めて知った。 
ライブが終わってから、その時のことを彼女と話したことはない。改めて話すのはなんだか無粋なように思えて。


こうして記憶を書き起こしていても、それまで経験したことのない種類の心の通い方だったな、としみじみ思う。的確な言葉をまだ見つけられずにいる、というのが正直なところだ。
こんな経験は連番したからってそうそう起こることではないのだけど、配信が主体の今「また連番したいよね」なんて口にする時に、決まって思い起こされるライブなのだった。

 

2020年10月現在、徐々に客入れライブが再開される兆しはあるものの、私自身は、まだ当分の間は現場に直接足を運ぶことは難しい。
再び不安なく会場のキャパシティいっぱいまで観客を入れられるようになった時、あの時のように、同じ時同じ場所にいるからこその経験が、またできたらと願っている。